園超雑感 3月  幼稚園には幼稚園としての果たすべき役割がある <その2>  ~ 「生活科」は小学校からの視点 「幼保小連携」の視点は? ~

query_builder 2023/03/02
0Q8A2555

<2月園長雑感 の続きです> 前回は「・・・・・ “授業が成立しない”という困った状況は解消されることになったのでしょうか?」で終わりました。 このことに対する答えを最初に述べておきましょう。

残念ながら【「授業が成立しない」という困った状況の解消には至らなかった】と言わざるを得ません。 どうして・・・・・?  

1992(平成4)年度から授業が始まることになった「生活科」は当初の思惑とは大きく異なるものとなっていました。  

○ [教科とはせずに「道徳」のような性格のものとする]は →→→ 「社会科」「理科」に替わる「教科」として位置づけられました。

○ [教科書はつくらない]は →→→ 生活科としての「教科書」がつくられました。

○ [評価はしない]は →→→→→→ 子ども一人一人を「評価」することになっていました。

戦後の学校教育がスタートし、1947(昭和27)年新教科「社会科」が誕生しました。 ところが「低学年に社会科は必要か?(低学年社会科廃止論)」という考えが昭和30年代後半から40年代にかけて言われるようになってきていました。 また、低学年「理科」についても問題点の指摘がなされていました。(低学年理科の問題については、某教科書会社の理科教科書作成に末端の一人として長く関わっていた私にとっては意に染まないところがありました。)  

これらのこと(低学年社会科、理科の問題)と、授業が成立しない問題(いわゆる学級崩壊)とが併せ考えられて教科再編、新教科「生活科」誕生となったわけです。

「二兎を追うもの一兎をも得ず」と言います。 教科再編という制度的目的は成し遂げたものの「授業が成立しない」状況を解消するには至りませんでした。二兎を追ったことも原因の一つと考えられます。 

しかし、二兎を追うことの本当の“意味"は・・・・・ 低学年社会科廃止論に対して当然「存続」を主張する考えも強くありました。 理科においても然り。 そのような中で廃止するには「新しい・・・このようなものを新しく創設する」という強い説得力が必要であった・・・・ これが行政の考え、戦略?であったかと、後に気づき、そのように考えました。 おそらく間違っていないと思います。  

「授業が成立しない状況」は深刻でありながら、その後も効果的な手が打たれることはなく、それぞれの学級内での対症療法的なレベルで推移していくことになります。  

何故ならば、日本の学校教育界にはこの時期(今から20数年前)新たに取り組むべき大きな問題が出てきていたのです。 それは、小・中学生の学力の問題です。 それまで日本の子どもの学力は常に世界のトップレベルにありました。ところが「OECD生徒学力到達度調査(PISA という)」でそれまでとは大きく異なる結果が突きつけられたのです。  

OECDとは、言わずと知れた“経済開発協力機構”のこと。 経済関連の国際機構が何故PISAなる学力調査をする? と最初は思いました。 しかしそこにはそれなりの理由がありました。 そのことについては文字数の関係でここでは触れません。 いずれにしろOECDの行う学力調査PISAの結果(世界における日本の子どもの学力の相対的低下)は我が国教育界に大きなインパクトを与えることになりました。  

「学力が落ちた=世界の中で順位が下がった=のは何故?」「学力をつけるには?」・・・ このことについて様々なことが言われました。 

「学校5日制で授業時間が削られたからだ」「ゆとり教育の行き過ぎだ」「学力観 そもそも“学力"とは何かを見極めなければ」「“教育"の質」・・・・ 喧喧諤諤と言ってもいい議論が巻き起こりました。 「学級崩壊」問題は隅っこに押しやられていたのです。  

しかし、そのうち「小一プロブレム」というようなことが言われるようになりました(10数年も前のこと)。 表現こそ違え「小学校1年生で授業が成立しない」ことが再び?三度?注目を集めるようになってきたのです。 

この問題の解消に向けて「幼稚園」「保育所」「小学校」の「連絡会」が開かれるようになりました。また『幼児期の終わりまでに育ってほしい姿』なるものが10項目「幼稚園教育要領」「幼保連携型認定子ども園保育・教育要領」「保育所保育指針」に共通して示されました。  しかし「一年生で授業が成立しにくい状況」は(失礼ですが、形式的な)「連絡会」「望ましい姿を示す」くらいのことでは解消できるほど簡単なものではありません。 肝腎(心)なことは小学校入学までに「40分間の教科授業を受けるだけの力が育っているか、身についているか」ということです。 

このことについて、私は、幼稚園、子ども園、保育所の先生方の <意識>はどういうところにあるのかが大切だと考えています。 「どのような子どもを育てようとしているのか」にあります。

「小一プロブレム」が言われていた頃「幼稚園は小学校のために子ども育てをそるところではない。子どもそれぞれが伸び伸びと・・・」とお考えの先生方も少なくありませんでした。しかし“教育”は今時点だけのことでなく、その子が将来どのような社会で生活していくのかを見据え、見通した上でなされるものでなければなりません。単なる保育とは違います。

(文字数の関係でくわしくは述べられませんが)聖公で言う《生きてはたらく力》・・・ これを身につけた子ども達は授業を壊すのでなく「授業をつくっていく」子どもであると、小学校教育に長く携わってきた私は考えています。 いや、むしろ「授業をつくっていく」力を身につけた子どもを小学校に送るために「生きてはたらく力」の考えに立って日々の聖公教育を推し進めているのです。


      <大分 聖公幼稚園>