園長雑感 11月 「えんちょうせんせい、ろうかにおばけがでた」

query_builder 2023/11/01
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< その1 >

 10月23日(月)12時過ぎ給食時間、年少ばら組教室に入ってみた。なんだかいつもと様子が違う。 普段であれば私の姿を認めると、室内は賑やかに、場合によっては無秩序状態(?)近くになることもある(もちろん一部の子どもであって全員ではない)。 「おいしいか?」「オッ、○○くん、よく食べているな」などと声をかければ、それを聞いて席を立ち自分の弁当箱を見せに来る子が何人も・・・。 自分の手を銃に見立て私の方に向けて「えんちょう バン!」とやる子もいる。 

給食指導の時間である。 担任にとって迷惑千万なことであるとは思っているのだが、子どもにとって園長の“おもしろさ”とその時の子どもの心とがそうさせるのである。 担任さん、許せ。

ところがこの日の給食の様子は日頃のそれとは全く様子が違っていた。 室内はシーンとしている。どの子もいつものようなおしゃべりをすることもなく、スプーン、箸を口に運んでいる。 私の姿を認めてもその雰囲気は少しも変わらないのである。 珍しいことだ。 いや、不思議なことだ。 「ン?どうしたんだ?」は私の内言。 「おいしいか?」と語りかける私にA女「えんちょうせんせい、おばけがでた」と深刻そうな顔つきで教えてくれた。 日頃活発に動き回るB男は、これも心配そうな顔つきで「ようちえんにおばけがでた」と言う。 廊下の方を指さして「ろうかをおばけがとおった」と教えてくれる子も・・・。 「そうか、おばけが出たか・・・」・・・ 「ハハーン、年少児にとってはあれはお化けそのものなんだな・・・ 」そう思った私はそれ以上深入りすることはしないでばら組を後にした。 いつものように私を追う子もいない。 どの子の顔も沈んでいる。 心から心配している顔つきである。  

実はこの日、教育実習生の設定保育を実施した。 年長ゆり組の子どもたちがハロウィーンに因み、子どもそれぞれが“お菓子をもらえるお面"を製作し、それを顔につけて職員室に「trick or treat お菓子をくれないといたずらしちゃうぞ!」と言ってお菓子をもらう活動をしたのです。 職員室に向かう時当然ばら組廊下を通ります。 どの子も自分の作ったお面をつけています。 年少ばら組の子どもたちはそれを目にしました。 どのお化けも顔以外は日頃から見慣れている体育服姿です。 それでもゆり組のお兄ちゃん、お姉ちゃんとは思わず、顔のお面(オレンジ色の南瓜、黒猫、その他様々なお化け)のみを見て本物の“おばけ”と思い込んだのでしょう。 後で担任にお聞きすると、この時数人の“おばけ”がばら組教室に入り込みました。 それを見た子ども4人が泣き出したと言うことでした。  

・・・・・ そうなんだ ・・・・ 発達段階“年少”段階にある子どもは最初に“目についたもの”“目立つもの”(この場合はお面)を目にすると、そしてそれが“強烈な印象”を与えるものであれば、他の部分(この場合は体育服や手、足など)に目を向けることなく「これは○○だ(おばけだ)」と判断する、決めつけてしまうんだなあ・・・ と改めて思ったところです。  

これはよく言われる「部分を見て全体を見ない」「木を見て森を見ず」「総合的、客観的に判断するのではなく、近視眼的に直観的判断を下す」・・・・・ なんて言うようなことではない。 そのようなことは「大人」の世界でのことだ。 ここは年少3歳児・満3歳児である。  

これが年長児であれば「おばけがきた」なんてことは言わないでしょう。 「誰かがお化けの面を被っている」「あれは園長だ!」と言うに違いありません。 

3月の節分行事では、鬼に追い回され、逃げ惑う年長児(最後、鬼は子どもたちにやっつけられて降参する)、鬼との戦いが終わった後は「赤鬼は園長先生でしょう」の大合唱。 「ええ~~! 鬼が来たんか? 園長先生は市役所に行っていたよ。 だから鬼は園長ではないよ。 鬼ヶ島から来たんでしょう?」と言っても「だって髪の毛が園長の髪だった」「靴が園長の靴だった」「腕時計が見えた」・・・・ 追いかけられながらも、あるいは鬼をやっつける時にか、目をひく、そして目の前の“鬼”の身体の大部分を占める“お面”“鬼の服装”“金棒”以外のごく僅かな箇所をしっかりと見ているのです。  

さて、前述、「おにがきた」と思い込む3歳児。この子どもたちのことをどう考えましょうか。  「幼いんだから当たり前のことだ」「まだ3歳、幼いんだからしかたない」と捉えましょうか。 あるいは「純粋だ!素晴らしいじゃないか」と考えましょうか・・・。 何れも間違ってはいないし、その通りだと思います。 一般的にはそう結論づけるでしょう。  

私は「子どもたちってなんて豊かな感性を持っているんだろう」と考えます。 そして「この豊かな感性・心をいつまでも失わずに持ち続け、さらに磨きをかけるために、この子たちとどう向き合っていくべきか」と考えたいのです。  

さて、聖公教育としてどう考えていきましょうか・・・・・


< その2 >

 先月中旬、1頭(匹)のカマキリと数頭のバッタ、そして1匹のイモムシをテラリュウムに入れてオレンジクラスに持ち込んだ。 言うまでもなく子どもたちは大興奮。テラリュウムからカマキリをとり出し、床を歩かせて大喜び。「僕つかめるよ」とは言うものの、なかなか掴むことができない。 何人もの 子どもが掴もうと次々に挑戦。しかし苦戦、苦戦、苦戦・・・ 怖さもあるのか、初めてのことでもあるためカマキリの動きに指の動きがついていかない。 そこで私が掴み「ソラ~~~」と子どもたちの方へ・・・・ウワーとクモの子を散らすように逃げる・・・  バッタを出してやる・・・・・ ピョ~~ンと飛んで逃げるバッタを子どもたちは捕まえることができない・・・・  どこに跳んだのか分からない子が多い。 動体視力が未発達なのだ。  

テラリュウムは玄関脇の棚に置かれることに・・・ 子どもたちはのぞき込み、時には中に手を入れて・・・ バッタの数が減ってきた。 「カマキリが食べたんだよ」と私。 「かわいそう」「残酷」「当然だ」「別々の入れ物に入れれば」・・・ この自然の摂理とも言うべき出来事に対して子どもの受け止めには様々なものがあるにちがいない。  

持ち込んで数日経ったある日、年中きく組A男が「園長先生、かわいそうだから持って帰って放してあげたら?」と言う。 なんて優しい心の持ち主。 「うん、そうだな」と私。 しかし、持ち帰ることはしなかった。  

何故かって? 「僕、カマキリが大好き」と言う子どももいる。 「バッタが好き」な子もいる。 何度も何度ものぞき込んでいる子もいる。 オレンジクラス、部屋に持ち込んでカマキリやバッタとの遊びを楽しんでいる子もいる。 持ち帰らずに翌日1頭のカマキリとバッタを補充した。  

ところが・・・である。 その2日後、年中きく組B男とC女が「園長先生、カマキリが1つしかいない!」とパソコンに向かっている私に報告に来た。 「エエ~~、本当か?」テラリュウムに向かいながら「B男君が食べたんじゃないのか?」は私。 この園長の冗談に頭を横に振って「僕食べてないよ」と真面目な顔をしての答えが返ってきた。 当然のことだ。 B男の真面目な顔つきの奥には、カマキリがいなくなったことに対する「心配」「不思議」「科学的探究心」などがあることは間違いない。 それは、前述したお化けを見たときの年少児の心=感性=に通じるものがあるのではないかと考えている。  

見たところ確かにカマキリは1頭しか見えない。 「本当だ、1頭しかいないな。どうしたんだろう?」と言いながら手を入れ、底の植物を移動させたりひっくり返したりしてみる。 「ほーら、ここにいたぞ。」 見つけたカマキリを子どもたちの方に差し出す。 ところが・・・ 子どもたちの口から言葉が出てこない。 しばらくして、後からこの集団に加わった年中ばら組のD女がぽつんと一言「足が動いている。」 他の子どもたちからは言葉がない・・・  

実は、この時私が手にしている(いなくなったはずの)カマキリは頭部がなくなっていたのです。 子どもたちの目の前で頭のないカマキリがまるで歩いているような動きをしているのです。 その異様な姿に子どもたちは度肝を抜かれたかのようにぽかんとした様子で見つめていました。  

カマキリは、子孫を残すための交尾を終えた後、雌が雄を食べるという。 種を維持するために卵を産む母親への栄養補給であろうか。 雌、雄合意(?)の上でのことであるのかな? 長い進化の過程で子孫を残すためにそのようになったのであろうか。 そのようなことについて私は答えをもってはいない。 しかし、「雌が雄を食べていた」のか、あるいはカマキリ同士の戦いの結果「強いカマキリが弱いカマキリを食べていた」のか、私は我が家の庭で何度か共食いの様子を目にしている。  

この哀れなカマキリをそっとテラリュウムに戻した。 「まっすぐ立てない。」とは先程のD女。 頭部を失った彼? 彼女? は上下感覚も方向感覚も失ってしまったのであろう。 横になったまま休むことなく足をバタバタ動かしている。立ち上がって歩くことは出来ないようだ。

さて、上記の場では子どもたちに次のように話した。 「カマキリはバッタを捕まえて食べるね。カマキリは2頭になったのでケンカをしたのかな。 強い方が弱い方を食べたのかも知れないね。」 この説明に納得したのか「大きいのが勝ったんだ」と子ども。  

イモムシは幼虫に変態していた。これは子どもたちにとって新鮮な発見であった。

「う、うーん、このようなことでよかったか?」・・・ < その 1 >< その 2 >のような出来事の場合、客観的な「知識・理解」の面だけでなく、情の領域=感性・感情=に関わることが関係してくる事象である。 まだまだいろいろな面で未分化・未発達の段階にある子どもたちである。 「教育」と言う面から見ると、そこでの扱いには慎重さが求められるし、難しい面がある・・・・・  と改めて考えさせられた出来事であった。


      <大分 聖公幼稚園>